Lesson1-1 日本の礼儀作法の成り立ち

日本のマナーはどのように生まれ、どのような変遷をたどってきたのでしょうか。
社会の秩序を保ち、社会生活をスムーズに営むためにできたルールや規範がマナーですから、日本のマナーは日本の歴史や社会情勢と深く関わり合いながら発達していきました。

この章では、日本の歴史の変遷とともに、日本のマナーの成り立ちについてみていきましょう。

飛鳥時代~平安時代/マナーのルーツ

日本のマナーのルーツは、飛鳥時代、聖徳太子によって定められた『冠位十二階』『十七条憲法』といわれています。朝廷で働く人々の階級や行動規範を定めたもので、これによって官僚の秩序を統制し、天皇を中心としたスムーズな国づくりが目指されました。

平安時代末期になると、ようやく天皇を中心とした貴族政権の体制が確立されてきました。
政権維持のために貴族たちは様々な作法を定めます。こうして煩雑化した作法を体系化し、伝承する役割を担う「有職」という職業が置かれるようになりました。

有職は、当初宮廷の儀礼や行事、官職、典礼に精通した有識者のことを指していましたが、次第に儀礼や典礼そのものを意味するようになり、有職に通じていることが出世するための必須条件とされました。

鎌倉時代~戦国時代/武士の台頭・公家と武家の礼儀作法の融合

平安時代までは武士はその武力を生かし、貴族の下で護衛の役を担っていましたが、次第に実力をつけていった武士たちは武士の為の社会を作ろうとする動きを強めていきます。

その結果、貴族による政治体制は次第に崩壊していき、鎌倉時代になると武士を中心とした武家社会が到来します。

武士は当初、その振る舞いの乱暴さから、身分が低く見られていました。
室町時代に入ると、足利義満は公家の「有職」に対抗するものとして、質実剛健な気風を尊ぶ武家の礼法(「武家故実」)を記した『三議一統』の編纂を命じ、武士の地位向上を目指します。

戦国時代になると、公家の「有職」と「武家故実」を融合した「有職故実」が生まれ、これが後の日本の礼儀作法の基盤となります。

江戸時代/庶民への礼儀作法の広まり

江戸時代に入ると、士農工商の身分制度と儒教思想の浸透を背景に、一家の主として絶対的な権力を持つ「家長」を中心とした家族制度が形成されました。

この時期になると、それまで貴族や武士といった地位の高い人々のものであった礼儀作法が、庶民の間でも広がっていくことになります。

婚礼・葬儀といった通過儀礼から、飲食・服装・振る舞い・文書作成の方法・言葉遣いなどの日常生活全般にわたって詳細なしきたりや作法が確立されました。

明治時代~第2次世界大戦以降・現代のマナーのあり方

明治時代になると、大政奉還・開国による西洋文化の流入などにより、世の中が大きく変化します。文明開化の掛け声のもと、これまの風俗や習慣を否定し、刀を持つことを禁止したり、洋装を奨励したりするなど、新しい社会の慣習を作り上げる機運が高まります。

新しい社会をつくりあげる1つの政策として、天皇を頂点とする新たな身分制度の確立が目指されます。学校教育においては教育の基本方針を示す明治天皇のお言葉である『教育勅語』が制定され、自分の行いを正しくするようにつとめる「修身」を作法の基本とした日本独自の礼儀作法が急速に整備されていきました。
同時に、欧米の礼法書も数多く翻訳され、和洋折衷の作法も少しずつ広まっていきます。

しかし、第2次世界大戦の敗戦により、道徳の基本であった天皇は「神」から「人」となり、それまでの身分制度は廃止され、教育制度も大きく変更を迫られます。家長を中心とした「家」という概念も相続なども含めて法的に否定されました。

これらに変わる新しい社会規範がないまま、現在では「心がこもっていれば、形式は問題ではない」とこれまでのしきたりを簡略化するケースも出てきています。

こうしたこともあり、マナー本によって多少マナーの記載が異なる場合もありますが、まずは基本を押さえた上で、「相手に不快な思いをさせない、心地よくさせる」という視点を大事にして実践を行うことが大切だといえます。